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カーネル・サンダース

40種類以上の職業を経験した苦労人

カーネル・サンダースといえば、全国にある「KFC(ケンタッキーフライドチキン)」の店頭にある白い像として知られています。

おなじみの等身大の像では上品な白いスーツにステッキと大富豪の雰囲気のある姿をしていますが、実は本物のカーネル・サンダースは非常に貧しい幼少期を過ごし、事業を開始してからも多額の負債を抱えた時期もある大変な苦労人です。

生まれはアメリカ合衆国のインディアナ州ヘンリービルで1890年9月9日が誕生日です。
「KFC」というお店の名前からケンタッキー州が故郷のように思えますが、実は故郷はケンタッキー州最大の都市ルイビルとオハイオ川を隔てた隣に位置しています。

実は「カーネル・サンダース」という名称は本名ではなく、「カーネル(Colonel)」はケンタッキー州に貢献をした人に与えられる称号です。

本名はハーランド・デーヴィッド・サンダースで、のちに「カーネル」の称号を得たことでそれを通称として使用しています。

幼い頃に父親を亡くしており、工場で働く母親を少しでも助けようと6歳の時から料理を始めたといいます。
7歳のときには母親と弟妹のために焼いたパンを褒められるほどにもなっており、このときに自分の作った料理で人を笑顏にするという喜びを知ったと後に語っています。

10歳からはさらに家計を支えるために仕事に出るようになり、このときに経験した仕事は農場や電車の車掌、判事の助手、保険外交員、セールスマン、修理工、ボイラー技士など全部で40種類以上にもなります。

15歳のときには母親の再婚相手からDVを受けて家出をしたこともあり、年齢をごまかして軍隊に入ろうとして1年で除隊になるといった経験もしています。

財産を失っても料理のレシピを武器に立ち上がる

サンダースが自分の会社を立ち上げたのは30代後半になってからで、最初はガソリンスタンドとしてお店を構えます。
のちにそのスタンドの一部に6席のみの小さなレストランを開き、その料理のおいしさで一躍有名になります。

しかし道路沿いにあったお店は近くにバイパスができたことで一気にお客が減り、さらに不況の影響もあってガソリンスタンドは倒産をしてしまいます。

さらにレストランも家事で焼失をしてしまい、サンダースは自分のお店と資産のほとんどを失ってしまいます。
このとき既にサンダースは65歳を超えており、一旦は事業から身を引きます。

ですがサンダースには秘伝のレシピである「11スパイス」をもとに、それを使って売れたチキン1つあたり5セントを受け取るという商売をはじめました。

自ら多くのお店を周りチキンレシピの契約をとる営業を地道にしていった結果、73歳までに600店との契約を獲得したといいます。

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スティーブ・ウォズニアック

Appleを作ったもう一人の天才

スティーブ・ウォズニアックは、Apple社をスティーブ・ジョブズとともに作ったもう一人の天才です。
Apple社というとやはりスティーブ・ジョブズという印象が強いですが、Apple社の確かな製品性能の基礎を作ったのはこのスティーブ・ウォズニアックあってのことです。

スティーブ・ジョブズはマーケティングとプレゼンに天才的な能力を持つ人であったためフロントマンとして多くの場所で活躍をしてきましたが、スティーブ・ウォズニアックはいわば裏方の仕事をする専門のエンジニアでした。

愛称を「ウォズ」と呼ばれジョブズとともにパーソナルコンピューターの黎明期で優れた製品開発に関わっており、最初のヒット商品「AppleⅡ」をほぼ独力で作りました。

早くして亡くなったスティーブ・ジョブズと異なり、スティーブ・ウォズニアックは2017年の時点で66歳とまだまだ元気に多くの場所で活躍をしています。

優れた実績はアメリカ合衆国から高い評価を得ており、アメリカ国家技術賞とグレース・ホッパー賞(35歳以下のコンピュータ専門家から選ばれる賞)を過去に受賞しています。

子供の時からエンジニアリングに優れた才能を発揮

スティーブ・ウォズニアックという名前はアメリカ人ではちょっと珍しいですが、これは両親の家系がともにポーランド系であったことに由来しています。

ただし生まれはカリフォルニア州サンノゼなので、家系的にはポーランドでも国籍的には純粋なアメリカ人です。

6歳のときにアマチュア無線の免許を取得し、自作で無線機を組み立てたとされています。
13歳のときにはトランジスタで作成したコンピュータで科学コンクールで優勝をしています。

スティーブ・ジョブズと出会ったのは1971年の21歳の時で、ヒューレット・パッカードのインターンシップに参加したことをきっかけにすっかり意気投合したといいます。

その頃からスティーブ・ウォズニアックが作った機械をジョブスが売るということを行っていたそうで、学生ながらかなりの売上を上げていました。

のちに二人は地元カリフォルニア州でコンピュータショップに製品を卸す仕事をし、そこからApple社を設立することを決意します。

商売上手なジョブズに対して根っからのエンジニアであったウォズはあまり金銭的な執着心はなく、学生時代の商売ではジョブズがかなり分前を不公平にとっていたともされています。

いわゆる「技術オタク(ギーク)」と言われる人ですが、「世界一陽気なギーク」と呼ばれることもあるほど自分の好きなことを楽しんでいることが感じられ、60歳を過ぎた今も好奇心に輝く瞳を見せてくれています。

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本田宗一郎

世界一のバイクメーカー「ホンダ」の創業者

自動二輪車では世界一、四輪自動車でも世界第二位のシェアを誇る自動車メーカー「ホンダ」の創業者といえば本田宗一郎です。

本田宗一郎は1906年11月17日に静岡県磐田郡光明村(現在の天竜市)に生まれました。
父親は鍛冶職人、母親は機織りを生業とする家庭で育ち、裕福ではないものののびのびとした子供時代を送ったと言われます。

子供の時から機械に触れることが多く、持ち前の好奇心から組み立てなどをよく行っていました。
父親はのちに自転車販売業を開業し、そこで中古自転車を修理し安く販売するという商売を行います。

世界で初めてガソリン車が誕生したのは1886年のことで、本田宗一郎が生まれるのとほぼ同時期の1900年からはヨーロッパ地域で量産化が始まりました。

日本にも1900年代初頭には初の自動車が輸入されてきており、初めて自動車を見た本田宗一郎はそれを仕事にしたいと強く願うようになったのだと言います。

小学校を卒業して15歳になったとき、一旦は地元を離れて東京の自動車修理工場に丁稚奉公に出るのですが、このときに勤務をした「東京アート商会」での出来事は今も本田宗一郎を語る自伝などに数多く紹介されています。

特に当時東京アート商会の社長であった榊原氏が本田宗一郎に与えた影響はかなり大きく、モータースポーツの世界に引き入れたのも榊原氏であったといいます。

その後1928年に徒弟奉公を終了した本田宗一郎は独立をし、故郷静岡に戻ってアート商会浜松支店を開業します。
なおアート商会は多くの弟子を取っていたのですが、その中で暖簾分けを許されたのは本田宗一郎のみだったといいます。

静岡に戻ってからも精力的にモーターエンジンの開発に勤しみ、自らをドライバーとしてレースに出場もしています。

しかし1936年のレース時に大転倒を起こしてしまい、本田本人は軽症だったものの同乗していたドライバーが脊椎骨折という重症を負ってからは妻の説得によりレース出場はやめています。

戦後に本田技術研究所を設立

転換期となったのは戦後からのことで、1946年に浜松市に本田技術研究所を設立します。
それまでも地元でエンジンなどの製造を行ってきたのですが、太平洋戦争が激化することにより産業は軍用のものに使用され、また数度の爆撃により工場が破壊されるということを経験しました。

戦後からは本格的にモーターサイクルエンジンの開発に取り組み、やがては日本から世界を代表するバイクメーカーとして成長していきます。

本田宗一郎に関する逸話は数多く残されていますが、幼少期から青年期にかけての波乱な経験こそがのちの製品開発の大きな糧になっていると言えるでしょう。

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ウォルト・ディズニー

ウォルトディズニーとはどういう人だったのか

ウォルト・ディズニーといえば、日本でも大人気のディズニーリゾートやディズニー映画のもととなる発案をした人として知られています。

しかし案外ディズニーキャラクターの大ファンという人であっても、創業者のウォルトディズニーが何をした人かということについては理解していないこともよくあるようです。

ディズニーキャラクターの祖であるウォルトディズニーは、もともとは一人のアニメーターとしてそのキャリアをスタートさせています。

その歩みも決して順風満帆なものではなく、ミッキーマウスなどの人気キャラクターを作り出す前までに2度の倒産を経験し、信じていた人に裏切られるというつらい経験もしています。

まず生い立ちから説明をすると、ウォルトディズニーは1901年12月5日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれています。
ウォルトは4男であり、下から2番目の子供として幼少期を多くのきょうだいに囲まれて過ごしました。

転機となったのは1918年で、父親との不和から赤十字に志願したウォルトはフランスに送られそこでしばらく戦地の生活を送ります。

そのときに自分の書いた絵が兵士や仲間たちの人気になったということを経て、帰国後には絵を仕事にしたいと思うようになったのだといいます。

帰国をしてからはカンザスシティーに移り漫画家として新聞の連載をする仕事を探すのですが、無名のウォルトになかなか収入のよい仕事は来ず、かなり困窮した時代を送りました。

自社製作のキャラクターの版権を奪われる

その後紆余曲折を経て、自分の才能はデザインではなくアニメーションにあると気づいたウォルトディズニーは兄のロイとともに「ディズニーブラザーズ社」をつくります。

そこで自社キャラクターとして「しあわせウサギのオズワルド」というものを考案し一躍大ヒットとなるものの、配給会社が契約を盾に「オズワルド」の版権を奪い、さらにディズニー社との契約を打ち切ると言われてしまいます。

人気キャラクターを作ってきたにも関わらず契約を切られたことにより一気に窮地に陥ったディズニー社ですが、その悔しさをバネにのちの大スター「ミッキーマウス」を考案します。

ミッキーマウス最初のアニメ作品である「蒸気船ウイリー」は効果音や声を吹き込んだ世界初のトーキー映画として記録をされており、その後も次々とヒット作となるアニメーションフィルムを作り出します。

そうして作り出したキャラクターをもとに新たな事業としたのがディズニー・ランドです。
コンセプトは「大人から子供まで楽しめる」ということで1955年のウォルトディズニー55歳のときに世界初のテーマパークとして誕生しています。

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南場智子

モバイル黎明期から急成長したメガベンチャー企業の創始者

南場智子(なんばともこ)氏は、モバイルアプリ黎明期に急成長した株式会社ディー・エヌ・エーの創業者です。
ディー・エヌ・エーは1999年3月に設立された会社で、当時は有限会社としてスタートをし同年9月に株式会社へと組織変更をしています。

創業初期に大きな話題となったのがオークションサイトの「ビッダーズ」で、1990年代に大人気となったネットオークションができるツールとしてヤフオク!と並ぶ存在として有名になりました。

しかし運営方針として他のオークションサイトでは取り扱っていなかった生体(昆虫類)を許可していたというところで問題になり、結果的に法律で生体出品廃止とされたことによりオークション事業は縮小になりました。

一旦は衰退となったかのように思われたディー・エヌ・エーですが、その後モバイル端末で行うことができるゲームアプリの「モバゲー」を開発することで再び主力事業が返り咲きます。

いわゆるガラケーが主流であった頃にはかなりの売上があったものの、スマートフォンが登場したことにより多くのアプリが参入することになり再び売上が大きく落ち込むことになります。

南波氏はそうした上下の変動が激しいディー・エヌ・エーの企業運営の中にあり、2011年には病気療養中の夫の看病に専念することを理由にCEOを退任しています。

しばらくは表舞台に出ることもなかった南波氏なのですが、2016年から起こったキュレーションサイトの盗用問題が起こったことで、再び経営の場に出て来ることとなりました。

球体経営が南波氏の考える組織

IT事業が日本で流行しはじめた頃より、ディー・エヌ・エーは大きな存在感を持っていました。
これは南場智子氏が組織運営において「球」ということを意識していたことに大きく関連しています。

南波氏が社長就任時より唱えていた「球」による組織とは、上下のヒエラルキーがなく社員全体の意見が反映される形のことです。

IT業界は日本国内に当たり前にあった年功序列的な組織ではなく、新しい感性を必要としていたところに新たな人材育成の形がありました。

そうした新たな国内企業としての形をつくろうとしたことも、南波氏の大きな実績であると言えます。
しかし家庭の事情もあり結果的には一時南波氏はディー・エヌ・エーを退き、その間にキュレーションサイトの著作権の問題という新たな社会問題に直面することになりました。

この問題を期に南場智子氏が再びディー・エヌ・エーの経営の中心的な役割として復帰をすることがアナウンスされています。

夫の病状も回復に向かっているとのことで、今後はフルタイムで経営に傘下できるようになった南波氏の活躍に注目です。

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