ウォルトディズニーとはどういう人だったのか
ウォルト・ディズニーといえば、日本でも大人気のディズニーリゾートやディズニー映画のもととなる発案をした人として知られています。
しかし案外ディズニーキャラクターの大ファンという人であっても、創業者のウォルトディズニーが何をした人かということについては理解していないこともよくあるようです。
ディズニーキャラクターの祖であるウォルトディズニーは、もともとは一人のアニメーターとしてそのキャリアをスタートさせています。
その歩みも決して順風満帆なものではなく、ミッキーマウスなどの人気キャラクターを作り出す前までに2度の倒産を経験し、信じていた人に裏切られるというつらい経験もしています。
まず生い立ちから説明をすると、ウォルトディズニーは1901年12月5日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴに生まれています。
ウォルトは4男であり、下から2番目の子供として幼少期を多くのきょうだいに囲まれて過ごしました。
転機となったのは1918年で、父親との不和から赤十字に志願したウォルトはフランスに送られそこでしばらく戦地の生活を送ります。
そのときに自分の書いた絵が兵士や仲間たちの人気になったということを経て、帰国後には絵を仕事にしたいと思うようになったのだといいます。
帰国をしてからはカンザスシティーに移り漫画家として新聞の連載をする仕事を探すのですが、無名のウォルトになかなか収入のよい仕事は来ず、かなり困窮した時代を送りました。
自社製作のキャラクターの版権を奪われる
その後紆余曲折を経て、自分の才能はデザインではなくアニメーションにあると気づいたウォルトディズニーは兄のロイとともに「ディズニーブラザーズ社」をつくります。
そこで自社キャラクターとして「しあわせウサギのオズワルド」というものを考案し一躍大ヒットとなるものの、配給会社が契約を盾に「オズワルド」の版権を奪い、さらにディズニー社との契約を打ち切ると言われてしまいます。
人気キャラクターを作ってきたにも関わらず契約を切られたことにより一気に窮地に陥ったディズニー社ですが、その悔しさをバネにのちの大スター「ミッキーマウス」を考案します。
ミッキーマウス最初のアニメ作品である「蒸気船ウイリー」は効果音や声を吹き込んだ世界初のトーキー映画として記録をされており、その後も次々とヒット作となるアニメーションフィルムを作り出します。
そうして作り出したキャラクターをもとに新たな事業としたのがディズニー・ランドです。
コンセプトは「大人から子供まで楽しめる」ということで1955年のウォルトディズニー55歳のときに世界初のテーマパークとして誕生しています。