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本田宗一郎

世界一のバイクメーカー「ホンダ」の創業者

自動二輪車では世界一、四輪自動車でも世界第二位のシェアを誇る自動車メーカー「ホンダ」の創業者といえば本田宗一郎です。

本田宗一郎は1906年11月17日に静岡県磐田郡光明村(現在の天竜市)に生まれました。
父親は鍛冶職人、母親は機織りを生業とする家庭で育ち、裕福ではないものののびのびとした子供時代を送ったと言われます。

子供の時から機械に触れることが多く、持ち前の好奇心から組み立てなどをよく行っていました。
父親はのちに自転車販売業を開業し、そこで中古自転車を修理し安く販売するという商売を行います。

世界で初めてガソリン車が誕生したのは1886年のことで、本田宗一郎が生まれるのとほぼ同時期の1900年からはヨーロッパ地域で量産化が始まりました。

日本にも1900年代初頭には初の自動車が輸入されてきており、初めて自動車を見た本田宗一郎はそれを仕事にしたいと強く願うようになったのだと言います。

小学校を卒業して15歳になったとき、一旦は地元を離れて東京の自動車修理工場に丁稚奉公に出るのですが、このときに勤務をした「東京アート商会」での出来事は今も本田宗一郎を語る自伝などに数多く紹介されています。

特に当時東京アート商会の社長であった榊原氏が本田宗一郎に与えた影響はかなり大きく、モータースポーツの世界に引き入れたのも榊原氏であったといいます。

その後1928年に徒弟奉公を終了した本田宗一郎は独立をし、故郷静岡に戻ってアート商会浜松支店を開業します。
なおアート商会は多くの弟子を取っていたのですが、その中で暖簾分けを許されたのは本田宗一郎のみだったといいます。

静岡に戻ってからも精力的にモーターエンジンの開発に勤しみ、自らをドライバーとしてレースに出場もしています。

しかし1936年のレース時に大転倒を起こしてしまい、本田本人は軽症だったものの同乗していたドライバーが脊椎骨折という重症を負ってからは妻の説得によりレース出場はやめています。

戦後に本田技術研究所を設立

転換期となったのは戦後からのことで、1946年に浜松市に本田技術研究所を設立します。
それまでも地元でエンジンなどの製造を行ってきたのですが、太平洋戦争が激化することにより産業は軍用のものに使用され、また数度の爆撃により工場が破壊されるということを経験しました。

戦後からは本格的にモーターサイクルエンジンの開発に取り組み、やがては日本から世界を代表するバイクメーカーとして成長していきます。

本田宗一郎に関する逸話は数多く残されていますが、幼少期から青年期にかけての波乱な経験こそがのちの製品開発の大きな糧になっていると言えるでしょう。