花札メーカーから任天堂をスタートさせた人
山内房治郎(やまうちふさじろう)は、今や日本で知らない人のいないゲームメーカー「任天堂」の創業者です。
ただし創業者といっても他の起業家のように華々しく会社を立ち上げたわけではなく、最初は「任天堂骨牌(山内房治郎商店)」の店主として始めています。
Nintendo Wiiや3DSなどのゲーム機から任天堂を知った若い人が、カードゲームとして売られている花札に「任天堂」と書いてあるのを見て不思議に思うこともあるようですが、実はもともとは任天堂は花札やトランプを売るお店だったのです。
創業者の山内房治郎は1859年11月22日に京都に生まれ、1889年(明治22年)9月23日に京都市文京区正面通り大橋西入るにおいてお店を始めます。
店主である一方で山内房治郎は優れた工芸家でもあり、森羅万象を愛する心から「花札」というカードゲームを考案します。
花札はトランプやUNOのようなカードとは異なり独特の質感と風合いをしていますが、これは伝統的技法によって作られた厚紙と樹皮によって作られているためです。
山内房治郎によって作られた花札はゲームとしての面白さはもとより、その芸術的価値の高さから関西方面で高い人気となり、博打として使用されるようになってからは一気に売上も伸びていきました。
その後1907年(明治40年)に日本に輸入されるようになってきたトランプ札を製造するという新たな事業展開を行います。
このときに販売経路として使用したのが日本専売公社(タバコ産業)で、大きさが近いタバコとトランプを一緒に販売するようとりつけたことで、一気にトランプが日本全国に普及していくことになりました。
山内房治郎はもともとは芸術肌のアーティストだったはずですが、意外にも商売上手でしっかりとした経営哲学を持っていた人物です。
任天堂の成長と受け継がれる精神
山内房治郎が初代任天堂骨牌を隠居する頃には、カードゲームの販売として日本一の地位を獲得する規模にまで成長をしていました。
房治郎には息子がいなかったため、跡継ぎとして娘に婿養子をとります。
これが金田績良(のちの山内績良)で、二代目の任天堂骨牌の社長としてカード販売を続けます。
時代はちょうど日本が戦局に突入する時期であり、山内家は跡継ぎ問題に苦慮をしつつも任天堂を事業として継続していきます。
その後現在のようなテレビゲームメーカーとして大ヒット商品を生み出すことになるのが、曾孫にあたる山内溥です。
山内溥は元任天堂代表取締役社長として2013年9月19日に死去するまで会社経営に携わってきましたが、任天堂の事業を時代に合わせ柔軟に変えていくことこそが創業以来の山内の魂として語っています。