1. >
  2. >
  3. チャールズ・シモニー

チャールズ・シモニー

エクセル・ワードの開発者「チャールズ・シモニー」とは

1948年ハンガリーのブタペストに生まれたチャールズ・シモニーの父親「カーロイ・シモニー」がいたからこそ、チャールズ・シモニーは世界のオフィスで必要不可欠なソフトを開発できたのかもしれません。
彼の父親はブダペスト大学の電気工学教授であり、高校在学中からコンピューターに興味を持ったのも、この父親の影響があったのではないかと感じられます。
高校在学中、コンピューター研究所において夜警のアルバイトをしていたチャールズ・シモニーは、当時ハンガリーにたった数台しかなかったコンピューターに触れることができ、指導を受けることもできたのです。

好きであるからこそ上達も早い、彼は高校を卒業する前に、コンピューターにかけてエキスパート級の実力を持ち、すぐにプロ・プログラマーになります。
きっかけはなんと彼が開発したコンパイラが当時の政府機関に非常に高い値で売れたからです。

その後、18歳という年齢で実力を認められデンマークのコンピューター会社に勤務、さらにアメリカにわたるために費用をため、1968年、彼の念願だったカリフォルニア州立大学バークレー校に入学、そこでも大学のコンピューターセンターでアルバイトし、学力もコンピューターの知識もつけながら物理数学、統計学の修士号を取得します。

アメリカでさらに花開いた彼の才能

バークレー大学を卒業した彼は、スタンフォード大学に進みパロアルト研究所で働き始めます。
そこは当時最先端の知識と技術を持ったエンジニアたちがそろっていたのです。
現代私たちが利用しているコンピューターが生まれたのも、パロアルト研究所にいた円バーのおかげです。

彼がここでかかわったのが「Xerox Alto」の開発です。
WYSIWYGワープロソフト ravoは、画面上で見たように出力されるという当時にはない画期的な技術です。
今でこそ画面上の書類などがその通りに印刷されるというのは当然のことですが、この技術の開発は指南の技で、これを実現したのがチャールズ・シモニーだったのです。

マイクロソフト、ビル・ゲイツを知る

パロアルト研究所から出ることを考えていたチャールズ・シモニーはマイクロソフト社のビル・ゲイツを知りそこで働くことを決意、1981年に入社しいよいよ、マイクロソフトエクセル、ワードの開発に携わります。
もしも彼がアメリカに渡らなかったら?パロアルト研究所を出なかったら?現代にあるような表計算ソフトのエクセルも、文書作成ソフトのワードも生まれていない可能性があるのです。

シモニーはその後、マイクロソフトを離れ2002年にIntentional Softwareという企業を立ち上げ、院展所なるプログラミングの研究を継続しています。
彼は才能に恵まれていたし、チャンスにも恵まれていたのですが、何より彼が言うように、「プログラミングが好き」ではなく「仕事が好きだからプログラミングをするんだ」ということが、現在の彼の成功を作り上げたのだろうと感じます。