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マイケル・デル

DELL CEOのマイケル・デル氏、成功の秘訣

IT業界において先駆者とも評されるマイケル・デル氏は、日本でもユーザーが多いデルコンピューターのCEOです。

企業では利用しているところがあっても一般にはまだまだ普及が進まなかった1980年代に、パソコンを普及させた人材として評価が高く、現在セレブの仲間入りを果たしているマイケル・デルという人物はどんな人物なのか、またなぜこれほどまでに安定的な成功を収めているのか、その世界をのぞいてみましょう。

幼いころから興味を持つものが違った

マイケル・デル氏はテキサスヒューストンに、ユダヤ教を信仰する両親のもとに生まれた移民出身です。
幼いころから他の子どもとは全く違うものに興味をもっていたという彼は、テクノロジー、またその周辺機器などに大いに興味を持ち、15歳にはアップルコンピューターを自ら購入したといいます。
この購入したアップルコンピューターですが、彼は探求心が強く、なんと解体してどのようにして動いているのか?確認したといいます。

ビジネスにかけても幼いころから興味を持っていて、少年時代、新聞の電話営業をしていたという経歴があります。
ただし、電話をかけていくうち、社会的地位の高い人が新聞購読契約をしてくれるということに気が付きます。
そこで彼は、住宅ローンの申し込みなどの情報から新聞を購読してくれそうな世帯に営業していたといいますから驚きです。
しかもこのアルバイトで得たお金を株に活かしたり、貴金属に投資するなどして、中学生という年齢で180万円もの収入を得ていたといいます。

デルは寮で生まれた

こうしてビジネスに高い関心を持ち、また考える力を持っていた彼は、テキサス大学に進学、そこでコンピューターを構築、それを非常に安い金額で売買し、いよいよ大学寮でデルという企業が誕生しました。
それからたった8年という歳月で、デルは大成長を遂げ、マイケル・デルの名は大きく世界に広がります。

成功ばかりじゃない、でも常に前を向く姿がある

彼がいったんCEOを退いてから、様々な出来事があり、企業としての危機を迎えた時期、CEOに復活します。

再び個人事業となってしまったデルですが、それでもまたわくわくするような将来になると語っているデル氏の真髄は子供のころに見せた働き者で聡明な彼が源になっているのではと感じます。
大学で起業し、成功者として名を連ねたのも、働くことの素晴らしさ、努力することの美しさを体験してきているからでしょう。

好奇心とあきらめない心、さらに成功のためには努力が絶対に必要だということを理解されているからこそ、彼は将来に新しい世界を見ることができるのでしょう。
ビジネスの先駆者として走り続けているマイケル・デル氏は現在もポジティブで地道な成功者として君臨しています。

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チャールズ・シモニー

エクセル・ワードの開発者「チャールズ・シモニー」とは

1948年ハンガリーのブタペストに生まれたチャールズ・シモニーの父親「カーロイ・シモニー」がいたからこそ、チャールズ・シモニーは世界のオフィスで必要不可欠なソフトを開発できたのかもしれません。
彼の父親はブダペスト大学の電気工学教授であり、高校在学中からコンピューターに興味を持ったのも、この父親の影響があったのではないかと感じられます。
高校在学中、コンピューター研究所において夜警のアルバイトをしていたチャールズ・シモニーは、当時ハンガリーにたった数台しかなかったコンピューターに触れることができ、指導を受けることもできたのです。

好きであるからこそ上達も早い、彼は高校を卒業する前に、コンピューターにかけてエキスパート級の実力を持ち、すぐにプロ・プログラマーになります。
きっかけはなんと彼が開発したコンパイラが当時の政府機関に非常に高い値で売れたからです。

その後、18歳という年齢で実力を認められデンマークのコンピューター会社に勤務、さらにアメリカにわたるために費用をため、1968年、彼の念願だったカリフォルニア州立大学バークレー校に入学、そこでも大学のコンピューターセンターでアルバイトし、学力もコンピューターの知識もつけながら物理数学、統計学の修士号を取得します。

アメリカでさらに花開いた彼の才能

バークレー大学を卒業した彼は、スタンフォード大学に進みパロアルト研究所で働き始めます。
そこは当時最先端の知識と技術を持ったエンジニアたちがそろっていたのです。
現代私たちが利用しているコンピューターが生まれたのも、パロアルト研究所にいた円バーのおかげです。

彼がここでかかわったのが「Xerox Alto」の開発です。
WYSIWYGワープロソフト ravoは、画面上で見たように出力されるという当時にはない画期的な技術です。
今でこそ画面上の書類などがその通りに印刷されるというのは当然のことですが、この技術の開発は指南の技で、これを実現したのがチャールズ・シモニーだったのです。

マイクロソフト、ビル・ゲイツを知る

パロアルト研究所から出ることを考えていたチャールズ・シモニーはマイクロソフト社のビル・ゲイツを知りそこで働くことを決意、1981年に入社しいよいよ、マイクロソフトエクセル、ワードの開発に携わります。
もしも彼がアメリカに渡らなかったら?パロアルト研究所を出なかったら?現代にあるような表計算ソフトのエクセルも、文書作成ソフトのワードも生まれていない可能性があるのです。

シモニーはその後、マイクロソフトを離れ2002年にIntentional Softwareという企業を立ち上げ、院展所なるプログラミングの研究を継続しています。
彼は才能に恵まれていたし、チャンスにも恵まれていたのですが、何より彼が言うように、「プログラミングが好き」ではなく「仕事が好きだからプログラミングをするんだ」ということが、現在の彼の成功を作り上げたのだろうと感じます。

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ハワード・シュルツ

現代のアメリカンドリーム「アワード・シュルツ」

貧困街で成長した少年が、10数年たち億万長者になるなんて、誰が想像できたでしょう。
しかしそんなドリームがあるのがアメリカです。
アメリカンドリームを現実のものとしたのは、ハワード・シュルツ、スターバックス・コーポレーションのCEOです。

現在の彼を見て、貧困街で育った少年だったと、誰が想像できるでしょう。
彼の努力、また生きる力と工夫には考えさせられますし、この生い立ちこそ、ビジネスモデルの起点になったのでは?と考えずにいられません。

学費は献血、アルバイトの毎日

ハワード・シュルツ氏が誕生したのはニューヨーク、ブルックリン、その中の貧困街と呼ばれる地域です。
両親からこんな中で成長しても、「自分の能力を信じなさい」と教育されていたため、必死に勉強し、大学に進学します。
もちろん学費なんて出せない状態でしたから、稼ぐ必要があり、彼は当時、献血で学費を補っていたといいます。

その後、大学を卒業したものの、就職は家庭用品の販売など、とにかく日々の生活費を稼ぐことで精いっぱいだったのです。
しかしシアトルにわたり、スターバックスというコーヒー豆の販売に目を留めます。
素晴らしく香ばしい魅力的な香りに魅せられ、またコーヒーをよりおいしく飲んでほしいと考えているスタッフがお客様に対し、焙煎、入れ方などを丁寧に伝えているのを聞き、ここで働きたいと初めて強い意欲を持ちました。
すぐにオーナーに懇願、マーケティング担当者として雇用されます。

イタリアに行ったことが大きな転機に

仕事でイタリアにいったハワード・シュルツ氏は、街中でどこに行ってもエスプレッソバーがあり、お客が多いということに気が付きます。
エスプレッソを飲むという目的のほか、ここにきて他の方々と語らい、非常に素敵な空間として利用しているのだということを理解します。

イタリアから帰国した彼は、スターバックスのオーナーに、エスプレッソバーを開きたいと懇願しますが願いかなわず、仕方なくスターバックスを退職、街中に小さなエスプレッソバーを開きそれが大当たり!2年後には「スターバックス」を買い取るということになりました。
スターバックスがカフェスタイルとして日本でも定着している原点には、ハワード・シュルツ氏のコーヒーに対する深い愛情と、ビジネスチャンスを見逃さなかったこと、さらに自分の信念に従い即行動できたからこそです。

いったんは企業成長し続けたスターバックスのCEOを辞任したのですが、人材不足、スターバックスのクオリティが出せないため、ブランド力が低下し顧客がだんだん去っていたのです。
そこで、再度スターバックスのCEOとして着任し、現代、原点回帰を果たしたスターバックスは、名実ともに最高のコーヒーを提供する店として知られているのです。

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ラリー・エリソン

かわいそうな生い立ちから世界屈指の億万長者になったラリー・エリソン

ラリー・エリソンはニューヨークブロンクスに生まれました。
しかし9歳のころ肺炎を患ったことで彼の母親は当時なんと19歳、若く知識もない状態でどうしたらいいかわからず、シカゴの親戚の家に彼を養子に出しました。

ブロンクスからシカゴ南東部の親戚の家に引き取られたラリー・エリソン氏は不動産事業を行っていた養父の元、成長、12歳まで養子であることを知らず幸せに暮らしたのですが、世界大競合にあったことで養父の会社が倒産、その後、養父はある企業の監査として働き始めます。

非常に自立心が高い少年だったラリー・エリソン氏は当時、養父とよくケンカをしていたようですが、数学、科学が特に優秀で、最優秀生徒として表彰を受けるなど、当時から優れた才能を発揮していました。
しかし、大学2年で養父が亡くなりそこでイリノイ大学を退学、シカゴ大学に入学するものの、また中退、結局彼はシカゴで学んだコンピューターの基礎知識をもってカリフォルニアバークレーに引っ越します。

才能の開花と起業

彼はその日に暮らせるくらいのお金しか持っていない状態で、とにかく生活するために何度も転職しながらプログラマーとしてのスキルや経験を積んでいき、IBMのメインフレームシステム構築にかかわる仕事をします。
こうしたチャンスや、8年にもわたる転職生活の中、培ったスキルによって彼はついに起業します。

1997年、ロバート・マイナー、そしてエド・オーツと3人でソフトウエア開発ラボという会社を設立します。
こうして働く中である1冊の本を巡り合い、SQLというコンピューター言語に目をつけます。
この本の著書すらSQLへのビジネス性に気が付かなったのに、彼はここにビジネスチャンスがあると考えたのです。

彼らはCIAのリレーショナル・データベース管理システムについて構築の2年契約を交わし、これが今に名高いコードネーム「オラクル」でした。
契約の中で1年という短い期間でプロジェクトを終了させ残りの時間を商用アプリの開発に活かし、最終的に彼らが作り出したリレーショナル・データベース管理死システムもオラクルと名付け、その後、躍進的な活躍が始まります。

アップとダウンを経験し最終的に復活へ

躍進的に伸びた彼らの会社はどんどん業績を伸ばし、オラクルに関しての収入は7年間毎年、2倍ずつ増加していきました。
株式公開された1986年には、31億円という状態になっていたのですが、この中に不正があったということで業績が悪化します。

資本が80%下降したことでもう倒産以外ないだろうと思うくらいに業績が傾いたのですが、ここでラリー・エリソン氏はあきらめなかったのです。
会社役員を経験と実績のある役員へ入れ替え、自分は商品開発に集中しました。
その後、オラクル7がリリース、このことが地位の確立につながり、ラリー・エリソン氏の復活となったのです。

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孫正義

インターネットの帝王と呼ばれる「孫正義氏」

ソフトバンクは年齢を重ねた方々にも、ユニークなCMなどでその企業名を知られています。
あの白いワンちゃんが登場するコマーシャルの携帯会社の社長さんでしょ?と思う方も多いのですが、彼こそインターネットの帝王と呼ばれる質の高いビジネスモデルを作り上げた人なのです。

1973年、孫正義さんはアメリカにわたり大学時代に培った知識によって電子手帳を考案、特許を取得し、この売却益によって100万ドルという非常に大きな資金を手にしました。
さらにその後、当時大売れに売れたビデオゲーム事業に手を出しそこで成功、1981年になってやっと日本に帰ってきました。

ここで「ソフトバンク」という企業が誕生し、この企業の中で孫氏がしたことは、当時創業間もなかったドットコムという企業の株を買い集めることでした。
さらにYahooの株を取得しここでまた大きな資金をもうけて、さらにドットコム株を買い集めていました。
それから紆余曲折ありながらも、景気後退で各企業が業務縮小を余儀なくされる中、ソフトバンクはインターネット事業の成功をおさめます。

孫正義氏のヒーローはマック成功の元となった「藤田さん」

1957年に九州、佐賀の鳥栖に、小さな企業を経営している父のもとで誕生します。
福岡でも名門と呼ばれる学校に入学するも、早くからビジネスへの興味が強く、この当時から同じ年代の学生とは違っていました。

なんと彼のヒーローは日本でマクドナルドを成功させた藤田さんでした。
孫氏は当時、自分のヒーローに会いたいという思いを募らせ、彼は直接藤田さんのオフィスに電話をかけて、アポイントメントをとったのです。
やはり目の付け所と行動力が波の人とは全く違うと感じます。

藤田さんに会って話を聞いた孫さんはより一層ビジネスに興味を持つようになり、結果、英語が必要ということでアメリカに渡ったのです。
アメリカの学校で英語を学ぶ中、ある雑誌に載っていた写真に目を留めます。
その写真を切り抜き大切に持ち歩いていたといいます。
そこに映っていたのはマイクロチップです。

学生がこんなところに目をつけるなんてやはり、目の付け所が全く違うと感心させられますが、こうした先見の明、行動力、積極性、さらにはもって生まれたビジネス能力があり、ソフトバンクという企業をたった23歳で設立し年間売り上げが3億500万ドルという企業にまで成長させるのですから、人間の格が違う・・・と感じざるを得ません。

もちろんインターネットの帝王と呼ばれている彼も、低迷期があり、何をしてもうまくいかないときがあったことは事実です。
しかし、ビジネスに成功している方の多くに言える、しつこさ、そして泥臭さ、さらにビジネスに対するチャンスを見つけ出す目をもって、現在も活躍されているのです。

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